鎌倉殿13人のキャストは!相関図を調べてみました!
鎌倉殿13人のキャストは!相関図は?(北条氏)
北条時政(1138~1215)坂東彌十郎
北条義時の父であり、北条政子(源頼朝の妻)の父でもあります。
平治の乱で敗れ、伊豆の国に流された源頼朝は、時政のもとで
流人生活を送りました。
治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、時政は一門をあげて
頼朝を支えます。
そして元暦2年(1185)に平氏が滅亡し、頼朝とその弟・源義経が
対立すると、時政は頼朝の代官として京都へ上り、政治的な
交渉や京都の治安維持にあたりました。建久10年(1199)に
頼朝が死去すると2代鎌倉殿・源頼家のもと、13人の重鎮に
選出されます。
北条義時(1163~1224)小栗旬
伊豆の国の在庁官人(行政を担当する役人)をつとめる
北条氏に生まれました。
父は北条時政、姉に6歳年長の北条政子がいます。
伊豆に流された源頼朝と政子が結ばれたことにより、
頼朝の挙兵に協力し、鎌倉に入りました。
建久10年(1199)、頼朝が亡くなると、新しい鎌倉殿の
頼家を支える13人の重鎮に選ばれます。
幕府創成期から頼朝を支えた5~60代の有力御家によって
構成されていましたが、この中で義時はひと世代若い
37歳でした。
北条時政(父)→ 北条義時(子)
鎌倉殿13人のキャストは!相関図は?(京都貴族出身)
大江広元(1148~1225)栗原英雄
京都で朝廷の実務官人としてキャリアを重ねていましたが、
源頼朝が挙兵すると、鎌倉に下向します。行政の実務能力を
持ち、京都に人脈を持っていた広元は、戦地に赴かず、
京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍します。政務処理を
行う公文所・政所が設置されると、その長官(別当)と
なりました。
頼朝の死後、頼家にも側近として仕えますが、「文士であるから
、合戦のことには意見を述べない」として、有力御家人の対立からは
一線を引く立場をとりました。
三善康信(1140~1221)小林隆
源頼朝挙兵以前は、京都でキャリアを積んだ人物です。
叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に
毎月3回使者を送り、京都の情勢を伝えていました。
以仁王の敗走と源氏追討の命令が出ていることを
頼朝に伝えたのも康信で、使者を送り奥州に逃げるよう
助言しています。
鎌倉に下向したのは寿永3年(1184)頃で、
頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、
文書作成などの実務や寺社関係の職務に
携わります。訴訟機関の問注所が設置されると、
初代の長官(執事)に就任しました。
中原親能(1143~1208)野間口徹
大江広元が京都の貴族社会でキャリアを積んだのに
対し、親能は幼少期を相模国で育ち、有力武士・
波多野氏の婿になりました。そのため流人時代の
頼朝と知り合いで、京都の中では頼朝の挙兵に
いち早く駆けつけています。
京都との人脈を持っていたことから、
たびたび京都へ上洛し、頼朝と京都の
窓口として活躍しました。
二階堂行政(生没年不詳)岩松了
父は藤原行遠、母は熱田大宮司季範の娘です。
熱田大宮司家は、朝廷で文章博士(もんじょうはかせ)や
大学頭(だいがくのかみ)をつとめる学者の一族で、
行政と頼朝は母方を同じくし、その縁で頼朝が行政に
声をかけ、鎌倉に下向したと考えられます。
鎌倉では公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政など、
さまざまな業務に携わりました。
政所が設置されると令(次官)、のちに別当(長官)
となり、実務能力を発揮していたと考えられます。
鎌倉殿13人のキャストは!相関図は?(御家人)
三浦義澄(1127~1200)藤岡弘
三浦郡を本拠とした三浦氏出身の武士です。
源氏の家人であったため、治承4年(1180)に
源頼朝が挙兵すると、義澄ら三浦一族は
石橋山に向かいましたが、川の増水に阻まれ
合流できませんでした。
義澄一族は石橋山の合戦で安房国に敗走した
頼朝を助けました。
治承・寿永の内乱では、源範頼軍に加わり活躍、
奥州合戦にも従軍しました。
源頼朝が没し、頼家が鎌倉殿を継ぐと、
鎌倉殿を支える13人の一人となりますが、
翌年の正治2年(1200)に74歳で死去しました。
三浦義澄 → 和田義盛(甥)
八田知家(生没年不詳)ムロツヨシ
下野国(今の栃木県)や常陸国(今の茨城県)を
本拠とする有力武士・宇都宮氏(八田氏)の
出身です。兄妹に平家や院に仕え、京都で活躍
していた宇都宮朝綱や、源頼朝の乳母をつとめた
寒川尼がいます。寒川尼は京都の貴族社会で
育った頼朝の養育係をつとめるほどの女性です。
知家の一族は京都との人脈を持ち、教養を
そなえた一族であったと考えられます。
治承・寿永の内乱では頼朝の弟・範頼に従軍し、
奥州藤原氏との戦いでは、東海道大将軍の
一人として活躍しています。
和田義盛(1147~1213)横田栄司
相模国の三浦郡和田を本拠地とする武士で、
三浦義澄と同じく三浦一族の出身です。義盛は
三浦義澄の甥にあたります。源頼朝の挙兵に参加して、
頼朝が安房国へ脱出した後は、常に頼朝のそばに仕え、
その信頼を得ました。
後に御家人の統制を行う長官(侍別当)となります。
頼朝が死去し、義盛に替わって侍所別当となっていた
梶原景時が失脚すると、侍所別当に再任され、その地位
を一層強固なものにしていきました。
北条時政が失脚すると、源実朝の信頼を得て、
義盛は最長老として隠然たる勢力を持つように
なります。
三浦義澄 → 和田義盛(甥)
比企能員(?~1203)佐藤二朗
源頼朝の乳母となり、流人時代を助けた
比企尼の猶子で、この縁から頼朝の挙兵に従い、
信任を得ました。寿永元年(1182)に頼家が
誕生すると、比企の屋敷が政子の産所となり、
能員の妻や、比企尼の娘である河越重頼室や
平賀義信室が乳母に選ばれました。また、
能員の娘・若狭局を室としたことから、
頼家は比企一族を頼りました。
一方で頼家の母の実家である北条氏との
対立が深まります。
安達盛長(1135~1200)野添義弘
藤九郎と称し、流人生活を送る源頼朝の
側近として支えました。頼朝と同居、または
ごく近くに住んでいたと考えられます。
頼朝に絵師の藤原邦通を推挙するなど、
頼朝に仕える以前から、京都との関係を
持っていました。
頼朝の挙兵に当たっては、相模国
(今の神奈川県)の武士たちや、下総国
(今の千葉県)の千葉常胤のもとを訪れ、
参加を呼び掛けています。
建久10年(1199)、頼朝の死により出家し、
法名を連西といいました。
鎌倉殿の13人に選ばれましたが、正治2年(1200)、
頼朝の後を追うかのように亡くなりました。
足立遠元(生没年不詳)でんでん
藤原氏の一族と言われていますが、定かではありません。
平治の乱では、源頼朝の兄・善平に従った一人に
遠元の名前が見えるため、頼朝挙兵以前から、
源氏の家人であったと考えられています。
また武士として活躍する一方で、
京都との縁もあり、文筆に長けた人物で
あったと考えられます。
また問注所が開設されると、文筆吏僚と共に
寄人に任じられています。
梶原景時(?~1200)中村獅童
桓武平氏の一流、鎌倉党を出自とする武士で、
鎌倉の梶原を本拠としました。
源頼朝が挙兵すると、石橋山の合戦で
頼朝の危急を救い、以来頼朝の信頼を得て
活躍します。
治承・寿永の乱の際には、源義経のもとで
侍大将として出陣し、朝廷との連絡・調整役も
つとめました。
後には侍所所司、厩別当など幕府の要職に
つきました。
景時は御家人統制の要である侍所の
職務上、有力御家人の反感も強く、
頼朝死後にまず粛清されたのが景時でした。
まとめ
北条時政は頼朝死後の不安な政情下において、
幕府政治の安定を維持するために、
頼家の母・北条政子と諮って、訴論はすべて
幕府の宿老13名の合議機関によって、
裁決すると定めました。
この合議制は幕府の老臣豪族と
側近職員との妥協的な連合でありました。
この妥協点の上に、北条時政・義時父子が
存在を主張する立場を維持していました。
この合議制ができた時、義時は未だ
38歳でした。
正式に合議制の一員として、正式の地位を
得たことで、義時の政治的生涯はまさに
この時期から始まりました。
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