北条義時の妻はたいへん美しい八重姫です!家系図をみてみましょう!

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北条義時の妻はたいへん

美しい八重姫です!

家系図をみてみましょう!

 

北条義時の妻は八重姫と言われています。

たいへん美しい姫で、伊東祐親(伊豆の豪族)

の三女です。

北条義時の家系図

北条義時は平安時代末期から

鎌倉時代初期にかけての北条氏の一門です。

伊豆国の豪族である北条時政の次男です。

また、北条政子の弟になります。

北条氏・家系図

時政

ー--義時ー--泰時

ー--政子

ー--宗時

ー--政範

ー--時房

長女の政子は保元2年(1157年)生まれで、

次男の義時は長寛元年(1163年)に誕生してますので、

政子との年の差は6歳です。

北条義時が15~16歳の頃に、姉の政子が

伊豆の流人だった源頼朝の妻になっています。

義時が18歳になった時には

時政(父)と宗時(兄)と共に

頼朝の挙兵に従いましたが、

石橋山の戦いで大庭景親に敗北

することになり、宗時は戦死しました。

八重姫の家系図

伊東氏・家系図

祐親

ー--長女

ー--次女

ー--河津祐泰

ー--伊東祐清

ー--八重姫

ー--四女

ー--女

八重姫は伊東祐親の三女と言われています。

源頼朝の最初の妻で千鶴御前(せんつるごぜん)の母です。

千鶴丸とも呼ばれていました。

源頼朝・八重姫

伊東祐親は平家の家人であったため、

伊豆に流罪となった頼朝の監視役でした。

その後、千鶴丸は男の子だったので、

伊東祐親の命により、殺害されてしまいます。

平家に敵対した源氏の嫡子(頼朝の子)である以上、

その命を奪うしかありませんでした。

八重姫にとっては自分の子を父親に

殺害されたことで、その悲しみは

計り知れないものです。

さらに、八重姫は祐親によって

頼朝との別れも強要されました。

結局、江間次郎(小次郎)と再婚させられ

悲しみに沈んだと

文献には記されています。

北条義時・八重姫の結婚

源頼朝が挙兵すると、江間次郎は

伊東祐親に味方して討たれました。

江間の地は領主がいなくなり、

恩賞として北条義時に領地を

与えたと考えられます。

江間を与えられた義時は

江間小四郎義時と名乗ることになりました。

「鎌倉殿」に仕える一人前の

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御家人になったことを意味します。

八重は江間で頼朝方の武士に

保護されることになります。

その後、江間の領主だった義時と八重が

頼朝・政子の仲介で結婚することに

なりました。

北条義時・八重姫の子供

結婚して翌年には子供が生まれ、

その子が「泰時」だったと想像できます。

「吾妻鏡」によると

泰時は頼朝から特別扱いされている

記事が確認できます。

北条義時と姫の前

姫の前は比企一族の比企朝宗の娘になります。

たいへん美しい容姿の持ち主でした。

北条義時は1年以上かけて

姫の前に恋文を送りましたが、

まったく相手にされませんでした。

それを見かねた頼朝は義時に

「絶対に姫の前と離縁しない」旨の

誓約書を書かせて、2人の間を

取り持ったと言われています。

こうして建久3年(1192年)に

姫の前は義時に嫁ぎました。

その後、朝時(次男)、重時(三男)を

生みました。

まとめ

「八重姫」と「姫の前」の関係は

「姫の前」が正室で

「八重姫」は側室と考えられます。

北条義時・八重姫ー--泰時

北条義時・姫の前ー--朝時・重時

 

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北条義時の父であり、北条政子(源頼朝の妻)の父でもあります。平治の乱で敗れ、伊豆の国に流された源頼朝は、時政のもとで流人生活を送りました。治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、時政は一門をあげて頼朝を支えます。
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